よろこび








 期待に胸を躍らせ、おもわずこぼれでる笑顔のひとびと。彼らの金色の髪はするりと空中に溶け、羽のようにはためいている。

 彼らは待っている。もうすぐ出会う、大切な、なにより大切になるだろう存在を。

 肩を寄せあって、隣どうしで目が合うと、くすくすとほほえみあう。待ちきれない様子で頬を上気させ、むずむずと体を動かすものもいた。

今日はそれでなくてもよい天気で、草も木も、風も花も、もちろん小さなバッタや空を飛ぶ鳥だって浮かれてしまうような、素敵な日だった。彼らのまわりでは若い木々が柔らかくそよぎ、あたらしい緑がきらきら輝いている。

 そう、つまり何か素敵なことが起こると、誰もがおもうような日だった。

 ちょうど、全員の頭のてっぺんに太陽がさしかかったとき、彼らが囲む丸い石壇のまんなかに、強い光が集まりだした。まるい石壇の中心には、赤い顔料かなにかで太陽を模したおおきな絵がかいてあり、その太陽が輝いているようだ。

 まっ白な光はいよいよ強くなり、誰も目を開けていられなくなる。まるく輪になった全員がぎゅっと目をつぶったその瞬間、石壇の上に何か小さな白いものが出現した。

 その白いものはもぞもぞと動き、生き物のように見える。

 そろそろとみなが目を開ける。最初に小さな白いものに気づいたひとりが「あっ!」とうれしそうな声を上げると、次々と歓声があがる。彼らのうちのひとりが、うさぎの背よりも低い石壇にそっと登り、小さな白いものをすくいあげるようにして手の中におさめた。柔らかなふくらみをもつ胸のほうに引きよせ、ゆっくりとごく優しく、手のひらの中のちいさなものをなでた。

 今までかすかにふるえるだけだった白いものが、ひときわ大きくふるえ、くしゃみをひとつだけした。小指のつめほどのまるい耳をぴくりと動かし、ぱちりとまぶたを開く。ふたつのまぶたの下からは、夜空をとじこめたようなまっ黒な瞳がふたつ、きょとんと目の前のひとを見上げる。小さな生き物と目があったそのひとは、三日月のように目を細め、泣きだしそうなほど切ない顔で、美しく笑った。







「あらあら、まっくろ」

 前日の雨でできたぬかるみに、小さなオオカミがごろごろところがり、はねまわって泥をはねとばして遊んでいた。

 それを見ていた羽のように風にたゆたう髪をもった女のひとが、くすくすと笑う。困ったような表情とはうらはらに、声ははずんで楽しそうだった。

 太陽の石壇で生まれた小さな生き物は、周りのひとびとに尊敬をこめて「天照大神」と呼ばれた。

 けれど、それは大きな広場で学者たちがささやきあうときや、神官が修行者に語りかけるとき、それにお祭りで新しく生まれた「大神さま」をたたえるときだけであって、普段づかいには「おちびちゃん」や「わんちゃん」などと、親しみをこめた忍び笑いとともにいわれたものだった。

 泥でまみれた小さな天照は、いまだ微笑みをたたえた女に抱きあげられ、今まであたたかい日に干していた、白い乾いた布でつつみこむまれた。小さな鼻だけが柔らかい布からつきでて、ひくひくとお日さまのにおいをかいでいる。

 ここにすむひとびとはみな、羽のような金髪と、穏やかな気性をもっていた。他の国では彼らのことを「天神族」とよぶ。

 天にすまう神々につかえる、神の国「タカマガハラ」の、愛すべき住人たち。

 彼らは太陽を、それはそれは大切にしていた。冷えた地上をあまねく照らし、ひとびとのこころまでほっこりとあたためたからだ。

 そして遠いナカツクニと呼ばれる場所や、月の國といわれるところまで、そのあたたかい光をとどけた。

「ちゃんと水で洗いながさなければ、いけませんね」

 抱きあげた小さなオオカミと、天神族の女は鼻をこすりあわせる。女のしろい鼻先にも、黒いしみができた。彼女は小さなオオカミの世話をまかされていて、いつも小さな神さまを心配していた。

 天照は、太陽の化身としてこの世に誕生した。だから天神族は天照をなにより愛しくおもい、優しく接し、大切に育てた。

 いや、たとえ太陽の化身でなくても、彼らはその小さな生き物を、自分たちの愛し子として慈しんだだろう。

 彼ら――天神族の望むことといえば、たったひとつしかなかった。

 天照の、しあわせであること。

 そうであれば、全員がしあわせでいられると、心底思っていたからだ。そして、それは見事に実行されていた。

 穏やかな気候に、優しいひとびと。しあわせな毎日。笑顔と歓声が、天照をいつも包んでいた。







一年もたてば、天照は立派な若いオオカミに成長していた。ばねのある柔軟な四肢。輝くような白い毛皮。時とともに力が集まり、あふれんばかりの輝きが隠しようもなく天照の体をつつんでいる。この頃には、ひとびとに慈母、慈母、と呼びかけられるようになっていた。その意味が、期待する彼らの声音から、ほころぶ笑顔からゆるゆると伝わってくる。もちろん、天照はそれにこたえる。

天神族のひとりと、天照はいまだ暮らしている。生まれてからずっと一緒にいる彼女だった。彼らの寿命は、例えばナカツクニとよばれる国の人びとからすれば、目もくらむような時間を生きる。そんな彼らからすれば、体ばかりは大きくなったとはいえ天照はまだまだ子どもであった。いや、親のような感覚を持っている彼らからすれば、いつまでたっても子どもであるような気がしてしまうのは、当然でもあった。

 しかし、天照はこの一年で、随分いろんなことを学んでもいた。たとえば、どうやったらひとびとからまんじゅうや果物をうまくもらえるかとか、昼寝に最適な木洩れ日のあたる森はどこかとか、かけっこで負けるとわかっていても、いつもこりずに本気で挑戦してくれる気のいい天神族はだれか、とか。それに、
――自分が生まれた理由。

天照は天神族のことばがわかった。いつのころからか、自分のことばも天神族に伝わっていることにも気づいた。

 あまりに自然なことだったのでそれが当たり前だとおもっていたら、このあいだやってきた月の國からきた商人には、通じていないようだったのが天照には意外であった。彼らには、天照がふつうの犬にしか見えなかったようで、無邪気に頭をなでたり首をさすったりしながら、天神族の商人と変わった金属の塊やきらきら光る透明な何かの値段を決めていた。

『いやあ、いい犬ですな。毛並みも、鼻っ面も、健康そのものだ。おたくさまのところの犬ですか?』

 そんな言葉に、天神族の商人は苦笑して「いえ」と答えただけだった。

 天照は、自分の生まれた理由について、おもいをめぐらす。風が吹くなだらかな丘で日の光をあびながら、夜にまたたく無数の星や天の川をながめながら。

 ひとびとに望まれたから、自分が生まれてきたのだと。ひとびとが、神を願ったから自分が誕生したのだと。逆に、彼らが神を必要としなくなれば、自分が必要なくなるということも理解していた。しかし、そんなことは天照にはどうでもよいことだった。

 彼らの願いは天照がしあわせであることだったが、同時に小さな望みも、ぱらぱらと木の葉をうつ無数の雨だれのようによりそっていた。

 天照が、優しい神さまになりますように。力強い神さまでありますように。皆に愛される神さまになりますように。ひとびとを愛する神さまになりますように。誰も傷つけることない、平和な世界をのぞむ神さまでありますように。

 それは、当然の欲。欲というには、きれいすぎて、純粋すぎた。

 彼らの優しい気性は、優しい願いと、優しい神を生みだした。

 そして天照にできるのは、彼らを見守ってやること。いつのまにか、彼らが天照を慈しんでいたように、天照も彼らを慈しみ、何より愛しくおもうようになっていたからだ。

 ただしこの世界は平和そのもので、彼らを見守っている天照も、しょっちゅうあくびをしながら草はらに寝転んでばかり。それでも、ここでは許されている。

 彼らに危害をくわえようなどと、一体誰が考えるだろうか。

 

周囲には、どこまでも優しい天神族たちが、天照を笑顔で見つめている。その目を天照は見つめ返す。ただ、それだけ。

 でも、それだけで彼らの心は満たされている。白いオオカミの心も、満たされている。



 柔らかい風が、頬をなでた。







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