ゆめ
ある日のこと。いつものようにおだやかな風が吹き渡る新緑の木陰の下、アマテラスはいつものようなやわらかな目覚めではなく、胸の奥がひどくむかむかするような、不快な気分を抱えて頭を起こした。
――いやな、ゆめだ。
そんなことは初めてであった。この世界は、今まで夢の中までがアマテラスにやさしかった。それだけに、これまで見たことのない、いやな夢はあまりにも重く心にのしかかる。
いやに鮮明で、じくじくと傷口から蝕まれていくような感触をのこしていった夢。
きっと、これは本当に起きること。
アマテラスは一度起こした首を、ふたたび前足のあいだにうずめた。深く、独りで思索の沼に沈みこむ。ちょっと見には、この陽気にあてられて平和にまどろんでいるようにしか見えない。
けれど、その全身には触れれば切れてしまうような緊張感がただよい、アマテラスの身をつつんでいる。一点の曇りもない鋭い刀身を思わせる、一分の隙もないその気配に、もし天神族の誰かがいたなら、何事かを察したかもしれなかった。それこそ、これから起こる未来に不安を持ったかもしれない。
けれど、幸か不幸か、この時点で天神族がアマテラスの異変に気づくことはなかった。誰も、他に未来を見ることのできるものなどいなかったのだ。
アマテラスのほかに、誰も。
アマテラスは、先ほどまで見ていた夢に近づこうとする。目をつぶると、まぶたの裏にはまたもあの情景が遠くに見えてくる。近づきたくないという己の弱い心を叱咤し、夢の淵に歩み寄る。歩み寄れば歩み寄るほど、目覚めた時に感じたぞっとするような吐き気が強くなる。くるしくて、途中で放棄してしまいたくなる。けれど、見なくては。
じぶんが、「かみさま」でいるためには、やらなくては。
暗い、昏い、夢の淵。ようやく辿りつき、そこから深淵をのぞきこむ。すると、饐えたにおいと、呪いの言葉、怨嗟と悲鳴――天神族の無残な死体が、見えてきた。
夢の淵に立つアマテラスの白い毛皮がぞわりとふるえる。足元が不確かで、今にも漆黒の深淵にひきずりこまれそうだった。
たくさんの、それこそ無数というにふさわしい数の異形のものたちが、逃げ惑う天神族に襲いかかる。立ち向かう術をもたぬ彼らは、鋭い爪で切り裂かれ、大きな牙で食いちぎられた。助けを求め、逃げ惑う姿に思わず目を背ける。
悪夢。これは悪夢だ。ほんとうにおこるひどい、ゆめ。
でも、
まだ、おこってはいない。
もしかしたら、だけれど、未来は変えられるかもしれない。
深い海の底から浮き上がる泡のごとく、思索から抜け出す。ゆっくりと目を開くと、そこにはいつもの景色があった。わかい芽や、力強い濃い緑の葉がゆれる枝と競い合うように伸びる草花。流れる雲は、いつの間にか山吹色や薄桃色の光をおびて、ゆったりと夜に溶けていこうとしていた。遠くの丘から徐々に、空と大地の境目が曖昧になってきて、その境界のあたりには一番星が輝いていた。
「まあ、こんなところにいらっしゃったの。お風邪を召してしまいますわ」
くすくすと笑う声がする。優しい笑顔の女性が、いつの間にか傍らに立っていた。横顔が夕焼けに照らされている。
「行きましょう。みんなのところに」
なめらかな線の、きれいな指が伸ばされる。その指が、耳の後ろのちょうどよいところをこりこりと掻いた。その心地よさにのどの奥から小さなふるえがもれる。
立ち上がり、天神族のとなりによりそう。すぐそばから伝わる体温が心地よい。
この温かさを守りたいと、心の底からおもう。
← | ura top | →