この腕の中の愛しき人-3-






祭り






   一体いつから始まった風習か、もう誰にもわからない。
 いけにえを奉じる祭り。いつも慎ましやかに幕を開け、人々が騒ぎ踊る傍ら粛々と儀式は人の目に触れず幕を下ろす。
 知るのは数人の高位の者たち。彼らは素朴だが厚く丈夫な外套を羽織り、手のかかった織物を前掛けに仕立てそれをまとった。多くの人々はそれと似た織物を旗にし、道に掲げて振り仰いだ。
「随分な盛り上がりだねえ。祭りかい?」
 旅人が尋ねると、朝の仕事を終えたらしい女が振り返って答えた。
「ああ、そうさ。明日からだけどね」
 準備からこんなに騒ぐんだから、と女は呆れながらもおおらかに笑った。
「こんな辺境でも年に一番のお祭りともなれば浮かれちまうよ。おまけに今年は随分良い日が続く」
「お陰で昨日、山を越えるのは楽だったよ。道も乾いていて」
「そうかい。じゃあ、楽しんでいきなよ。もっとも一番華やかなのはもっと都のほうだけどね」
「ふうん。都はここからどれくらいだろう。足には自信があるが間に合わないならここにいたほうがいい」
「大丈夫さ。祭りは5日か、それよりもっと長い。歩きなら3日はかかるが、途中の村に寄りながら楽しめばいい。それぞれ違うから」
「ありがとう。じゃあその赤い実、貰おうかな。美味しいところを頼むよ」 「毎度あり。気をつけて、楽しんでおくれね」
 簡単な挨拶を交わして、彼らは離れた。旅人が実をかじると、口の中には豊かな甘みが広がった。

「殺された?姫が」
 驚愕に見開かれた目。彼の周りには信じられないといった面持ちで、幾人もの人々が顔を見合わせている。
「は、途中で賊に襲われたそうで」
 息を切らせた伝令は心持ち眉をしかめ、そっと大臣に耳打ちした。大臣はそれを聞いて更に渋面を濃くする。首を横に振り、伝令に退席を命じた。彼は一礼するとさっとその場を離れた。
「殿下、今お聞きいただいた通りです。――婚礼は、ええ、勿論中止でございます。この度は真にお気の毒なことで、一体なんと申し上げたらよいのやら……」
「何も言うな。聞きたくない」
 きっぱりとした口調だったが、彼の表情は青ざめ手は微かに震えている。
「皆、ご苦労。すまないが、出て行ってくれ。私も混乱している」
 半分は助かったとばかりに、もう半分は残していく彼を心遣いながらそろそろと部屋を去った。
(――あれが死んだ?)
 顔を諸手で覆う。何も思い浮かばない。恐ろしいのか、悲しいのか、わからない。  背骨が焼け石でじりじりと焼かれるように痺れている。体は砕け散って今にも消えそうだった。全身の鳥肌が立ち、どんな敵の前に飛び出したときでさえ震えなかった膝が、別の生き物のようにがくがくと震える。よろりと壁際により、その豪奢な垂れ幕の掛かった壁にもたれかかる。
 いや、まだそうと決まったわけではない。そのひとが姫だと決まったわけでは。
 この目で確かめなければ。
 しかし、彼は心の底からその希望を信じているわけではなかった。心は絶望に塗りつぶされて黒く、ただ闇の底を漂う流木のごとく流されるだけ。
 彼の予感は当たった。城のすぐ外、門番の小屋に彼は駆け込んだ。そこには布に包まれた死体がひとつあった。外には他に四体。従者の死体である。
沈黙を守る死体は、紛れもなく彼女の抜け殻だった。彼の手がそっと布をめくると、そこには衣服も装飾品も剥ぎ取られ、無残な傷跡がまだ生々しい少女の死体があった。女というにはまだ早く、体の丸みや頬のすべらかさは彼女が最も美しい時期を過ごしていた名残を残している。
 ただし鼻は潰され首には黒く変色した指のあとがくっきりと浮き出て、死後に止めを刺されたらしく、白い両の乳房の間には肋骨を突き通して心臓を破壊した剣の跡がある。腿や腹には乱暴された跡があまりに痛々しく、泥や汚物に混じって無念の破瓜の血が呪うようにこびりついている。
 かつて彼が褒め称えたハシバミ色の眼はどんよりと曇り、宙のどこかを向いて何も映さない。そこから目をそむけたくて、彼は布で彼女を包みなおすと立ち上がった。
「間違いなく、姫だ」
「残念なことです。心からお悔やみを」
 医術を心得たまじない師は最高の礼をもってご遺体は埋葬いたします、と保証した。彼は無言で頷き、死臭の漂う小屋を出た。
 どす黒い感情が爆発する寸前だった。大地の不浄のものが足の裏からずるずると体に染み込み、世界中の影を飲み込み、ひとつの大きな憎しみの塊になってしまいそうだった。
 彼は重い体をひきずり、自室に篭った。晩の食事はもちろん次の朝も手をつけることはできない。一睡もできぬままただ時間だけが過ぎ去る。そのうちに根負けした体が、眠りを求めてまどろみ始めた。
 その時、彼は夢を見た。
 誰かが彼を呼んだ。優しい、女性の声。いや、少女だろうか。
 ――こっちにきて。
 姿がよく見えない。小さくて優しい手が手招きする。豊かな長い髪が風になびく。部分部分はちゃんとわかるのに、全体の像としては結びつかないのだ。断続的に、彼女の声が響く。それも木立の隙間から聞こえるようだったり、耳元で囁くように聞こえたりする。
突然、背中に圧力を感じ暗がりに突き落とされる。ごろごろと階段を転がり落ち頬につめたい石畳の感触がした。あの声も途切れる。起き上がろうとすると、石畳の堅牢な手触りが融けるように消えた。足元には底なしの闇。音もなく落ちて、気づくと目の前には彼女の死体があった。暗い目がじっと彼を見据える。切り裂くような鋭い声が響く。  ――もっと生きたかったのに!
 彼は飛び起きた。城中に響き渡るような叫び声を上げたらしく、閂の掛かったドアの向こうで激しく戸を叩く音がする。痛む頭を抱えて、彼は大丈夫だと臣下に伝えた。心配する彼らを半ば強引に下がらせる。しかしどうしてもと引かない者が一人、粥を持って入ってくる。
「殿下、お辛いでしょうがどうしても食べていただかねばなりません。今、あなたに死んでもらっては悲しむものたちが大勢いるのですよ」
 臣下の一人は、祖父の代からよく王族に使えた忠義に厚い男だった。普段なかなか表情の変わらない男が、頬に一筋光るものを流したままにしている。
「……すまない」
 彼は衝撃を受けた。そうだった、彼女は彼の姪で幼い時から実の子どもと同じくらいに可愛がっていたのだった。彼が幼い日の彼女と手をつなぎ、庭を散歩していたときの情景が目に浮かぶ。
 その後いくらか沈んだ気配はあるものの段々とふさぎこむこともなくなり、周囲の人間も過去の出来事として彼女の死を受け止めるようになっていた。しかしよくよく注意して見れば、あの日以来彼の顔には一度も笑顔が浮かんでいないことに気づいたはずだ。結局、そのことに周囲が気づくのは取り返しのつかない事態になってからだったが。

「やあ、祭りはまだやっているかね?」
「ああ、旅人さん。もちろんやってるよ」
「この街の見ものはなんだい?」
「普段はね、着飾った男やら女やら、みんなで練り歩くのが一番の目玉なんだけどね、今年はやっぱり王子の婚礼があるからねえ。そのお嫁さんのお輿入れが一番の見ものかな」
「へえ、王子の婚礼!」
「そうだよ、おめでたいのさ。街中その話題で持ちきりだからね」
「よお、旅人さん。そうさ、今年は特別さ。ただ残念なのはここが都じゃねえってことさね」
 昼間っから酒を飲んでいるらしい男がずいと話題に入ってくる。赤ら顔が日に照っててかてかしている。
「なんだい、おまいさんは」
「固いこといいなさんなって。ほら、旅人さんだって笑ってるよ。ねえ、そうだ、都に行ってみればいい。ここで輿入れの行列は止まらずに都の大広場でやっと花嫁さんのご尊顔が拝めるってわけだ」
「美しいひとだときくね」
 次々と人々が集まってきては豆菓子だの独特の臭みのある酒を旅人にすすめる。四方山話にあちこちで花を咲かせ、ちょっとした酒宴の様相を呈し始める。
「夜中の空のような闇色の長い髪をしたひとだというぞ」「外国の娘さんだからねえ。こちらの風習は知ってらっしゃるのかしら」「大変だねえ。お母様は反対なさったとか」「馬鹿をいうんじゃねえよ。大賛成も大賛成だったと聞いたぞ俺は」「でもお父様は城で重臣を務めているそうじゃないか」「ちょっと待ちな!それは俺の酒だ!」「ええい、うるさいやつだな。そんな野暮なことをいうんじゃないよ」人々の声が方々からかかり、収拾がつかない。
 酒宴で盛り上がっていた男の一人がそんな人々を手招きし、意味ありげに目配せして落ち着かせようとする。興味を持った幾人かが耳を傾け、「静かにおしよ」と誰かが注意した。
「やあやっと静かになったな。まったくこいつらときたら、いつまでも自分のおしゃべりばかりに夢中になるんだからな!時々はすぐに静かになったって――」
 言いかけて周囲から不満の声が上がる。男が咳払いし、仕切りなおした。
「えーところで、だ。俺が言いたかったのは、だ。その」
 彼は斜め上を目線だけ動かし睨みつける。聴衆の険悪な目つきに記憶が刺激されたらしく、慌ててしゃべりだした。
「そうそう!王子にぞっこんのそのお姫さまだけどな、どうやら殺されたって話だぞ」  一瞬の沈黙。しかしその沈黙は観衆の笑い声によって破られた。晴れ渡る青空のもと、明るい声が再びあちこちでおしゃべりを始めた。
「馬鹿だなあ。いったいどこでそんな情報を仕入れてきたんだよ」
「縁起でもないったら」
「お忍びで来る途中の馬車を襲われたって、確かな筋から聞いたんだよ!」
「確かな筋!」
 次第に気弱になる男に畳みかけるように笑い声がかぶさる。その響きに段々嘲笑や苛立ちが含まれていることが、更に男をまごつかせる。
「一体おまえにどんな“確かな筋”があるっていうんだ」
「だいいち、それならあの人だかりはなんだい、行進は?花をまく人や鈴飾りが見えないのかい」
 恰幅のいい女が指さした先には大通りの真ん中をゆく、一際華やかな行列。歓声とどよめきが上がる。待ち望んだ姫君の到着だった。今まで男や旅人の周りでおしゃべりしていた人々はあっという間にその行列を取り巻く賑わいの中に溶け込んでいった。ぽつんと残された男はそそくさと雑踏にまぎれ見えなくなる。旅人は小さく苦笑してから自分もその群集にもぐりこんだ。
 この街の緻密だがどこか質朴な風合いとは違い、槍には鈴や房飾りをつけた衛兵が、金糸銀糸も鮮やかな座を取り付けた車を守っている。それを引く四足の鈍重な獣も、花や錦で飾り立てられゆっくりと首をもたげてはまた下げながら前進していく。天幕の張ってある座の中は薄絹で目隠しされていて見えない。しかし時折布間より白い手首がするりと出てきては白い大ぶりな花や時に金貨を投げた。その花が投げられるたびに歓声が上がり、我先にと人々が取り合う。
「高貴なお人というのは指先にまで気品が行き渡っているんだね」
 ほう、と息をつきながら娘が自分の手を見つめる。あの天幕から出ていた手は白く滑らかで、指には大きな玉のついた指輪をいくつもつけていた。
「ほうら、あんたの指にだって大した気品が行き渡っているじゃないか」
「こんな赤やら青やら、まだなに染まった手が大したもんなわけないじゃない」
「あら!今度は金貨だわ!」
 きゃあきゃあと嬌声が上がり、花や金貨が宙を舞った。

「殿下、いらっしゃいますか?ワンダ様?」
 恐る恐るといった様子で臣が部屋をのぞきこむ。今日は午後から合議が開かれるというのに、太陽が天頂をとっくに過ぎても彼が現れる気配がないので、具合でも悪いのかと下男が呼びに来たのだった。
 ふと横から空気の揺らめきを感じて振り返ると、いつの間にか探していた人物が立っている。
「ああ、いらっしゃったのですね。いつもなら誰より早く用意をしていらっしゃるからお加減でも悪いのかと」
「少しめまいがしただけだ。今から行こう」
 もともとあまり日に焼けない白い肌のこの国の王子は、薄暗い室内で青白くともすれば病に冒されているようにも見える。しかし浮かべた微笑は優しく労わるようで、下男を慰めた。
「お供いたします。よろしいでしょうか」
 ほっと安堵の息をつきながら、下男は先を進む。
「ああ、もちろん」
 そのまま前を向いてしまった下男は、すぐ後ろを歩く王子の表情には全く気付かない。そこにあったのは、まるで人形のように何もない表情だった。







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モノ人形編第三話。だんだんとワンダが危うくなってきます。