この腕の中の愛しき人-2-






神殿






 神殿と巨像の完成を聞いて、この国の最高権力者は大急ぎで神殿に向かった。彼はもう随分と年をとってしまっていて、実際の政は息子や腹心の部下たちに譲っていたが、長年国を治めてきた彼の言葉なしにこの国が動くことはなかった。数人のお供と息子を伴い、完成を告げた従者を筆頭に、神殿の中へと入っていく。権力者はこの日の為に基礎完成時の一度を除き、一度もこの神殿に訪れたことはなかった。そして念願の完成を無事に向かえることができた。もしかしたら、完成を見ることなしに死ぬかもしれぬと半ば諦める気持ちもあったために、完成したという事実だけで彼の心は否応なしに歓喜に満たされるのであった。
 彼が先頭になり、厳かな気持ちでそれぞれ粛々と神殿の中に足を踏み入れる。祭壇の上の丸天井からは神々しい光が跳ねるように射し込み、奥に並んだ十六体の巨像は、薄暗い中にもその威容を誇っていた。
 しかし、彼は何か――そう、何かが足りないように感じた。
 正直にいうならば、やや拍子抜けしたといってもいい。
 どこがどう心に落ち着かぬのか、彼にはわからなかった。近づいてみても、巨像に施された模様は計算されつくされ、伝統と革新を備えた意匠が凝らされ、古今東西見たこともないような素晴らしい出来であることは疑いようもないし、神殿から漂う気配も(実際に彼が知っていたわけではないのだが)、まるで本物の神がその場におわすような、そんな神々しさで溢れている。
 彼は心に残る澱のようなものを無視し、首を振る。きっと、今は装飾をしていないからだ。後で金や銀、絹の垂れ幕で盛大に飾れば、問題はなかろう。
 それに――、と彼は無理やりにこの食い違う感情と理性に説明をつけた。あまりに長く期待を持ち続けたせいで、想像ばかりが神の国へと近づき、人の子の限界というものを見失っていたのだ、と。
 ふと後ろを振り返り、またしても反駁する心が芽生える。彼の目に入ったのは祭壇。あの祭壇は何なのだろう。あんなもの、当初の図面にあっただろうか。それに、何か、大事なものが欠けているように見えてならぬ。
 何か、何かが。
 彼は完成を知らせた従者を呼び寄せる。従者は若かったが、その父が匠としてこの建設に従事していたため、事細かい事情まで精通していたのだった。
「あの祭壇は、一体何に使うものなのだ」
 彼は率直に問うた。彼はいつでも回りくどい道は使わずに、真っ直ぐに目標に達しようとする性質だった。ふと従者は、一瞬と惑うような素振りをしてから諦めたようにしゃんと背筋を正して答えた。
「はい。あの祭壇は私めも奇妙に思いまして、父に尋ねましたところ、『責任者の若様が最後に付け足した』と申しておりました。そしてさらにその理由を問いますと、『あの祭壇は戦神様を天よりお導きするために必要であったからだ』とお答えになったと申しておりました」
 それを聞いて、一応は納得したものの、何かが棘のように小さく引っかかっているような気がした。しかし彼は、これは自分の芸術に対する理解が乏しいためであろう、と解釈したのだった。
 この一連のやりとりをずっと黙って聞いていた息子が、突然口を開いた。まるで、じっくりと深い思索から耽っていたあとのように。粘つく唾液が彼の口元で糸を引く。
「――あの祭壇は、いけにえを必要としているのではないでしょうか」
そういうと同時に剣を抜いた数人のお供は、老齢のこの国の最高権力者をめった刺しにした。老いた肌はいともたやすく剣を通し、さしたる抵抗もないままに数瞬でただの襤褸と化した。生まれたての雛の声より小さい悲鳴さえ、その切り裂かれた喉から発せられることはなかった。
 一面の血の海に怯えたのは、ただ従者一人。他の者たちは顔色一つ変えず、ただ黙って襤褸と化したこの国の、元は最高権力者だった人物の死体を見つめた。彼らの仮面に、服に、殺戮の痕跡を伝える赤い液体が点々と、時に滴り落ちるほどに沁み込んでは黒い染みへと変化していった。震えの止まらぬ従者に、若き最高権力者は問うた。
「この巨像を造った匠に、暇があるのなら会いたい。彼はどこにいるのだ」
 従者は歯の根の合わぬまま、何とか答えた。
「彼は、前の日からどこかへ消え、未だ彼の工房にも戻っておりません」
 それを聞き、若き権力者は「そうか」と言うにとどめ、神殿を後にした。残ったお供は持ってきていた布袋に未だ温かな死体を詰め込むと、神殿から出て行った。神殿に残されたままになった従者は、次の日の朝までに隣の国に向かって逃げ出した。
 さて若き権力者は、行方の知れぬ彫り師や、逃げ出した従者をどうしたのだろうか。彼は、特に何をするでもなかった。人を使って探させることも、追わせることもしなかった。なぜなら、既に自分の味方しかいないこの国で、前王が殺されたなどと密告するのは意味のないことであるし――言ったところで不敬罪として裁かれるのが関の山である――神殿が出来上がってしまえば、彫り師にも用はなかったからだ。
(ただ一つ残念なことといえば、もう一つ、像を造らせそびれたことだ)
 彼が考えたのは、第十七体目、すなわち自分のための像だった。なぜそれが彼のための像なのか、それは後で語ることにしよう。
 ただし、若き権力者はそれほど落ち込まなかった。前の権力者、つまりは彼の父親は、為政もさることながら、芸術や学問も大切にし、そのための法を整備し、さらってきた匠を教授に据えて、新たなる匠――学究の徒の育成につとめるという偉業を成し遂げていたのである。だから彼に言わせれば、件の消えた彫り師の代わりなど、今となってはいくらでもいるということになる。
 それに何より、彼は彫り師の顔など覚えてはいなかった。何度か見かけたようにも思ったが、今までその彫り師に毛ほども興味は沸かなかったから、まじまじと眺めたこともなかったのだ。
 そういったわけで、もう彫り師を気にかける者は、誰もいなくなったのだ。若かった見習い芸術家をさらい、年月が経ち、仲間は欠けていき、そして老いた彫り師はとうとう彼にとっての第二の国にまで見捨てられ、そして時の経つままにその存在は忘れられていった。
 さて、若き権力者がなぜ「自分のための十七体目の像」を造らせようと考えたかを説明しよう。それはこの話の中でもとりわけ重要な要素に関わってくる事柄だ。
 巨像は、いわずもがな神殿に十六体建設された。かの運命に見捨てられ非業の死を遂げた人間が、人生の多くの時をつぎ込んで作り上げた、素晴らしい巨像たち。それらを記述する時、まず人々に想像される姿かたちではない。それは有り体にいえば、化け物の姿形をしている。あるものは巨大な目玉を持ち、あるものは蛇のごとくとぐろを巻いている。どれも身近にいる動物の似姿のように見えて、少しずつ違っている。人を基盤にして、何か獣を掛け合わせたような形のものもある。すべてが空想上の形なのだ。これを異形といわずとしてなんといおう。人の形を模したとしても、それはヒトのように二本足で歩くことができる形というだけで、ヒトではない。
 しかしこれはあの国では戦神なのだ。なぜなら、それは神を象っているにもかかわらず、『彼らの王たち』であったのだ。つまり歴代の最高権力者たちを象徴する像なのだ。
 それぞれ、王となった暁には、彼らは他の誰のものでもない独自の形象を決め、それを自らの分身として定めるのだ。それは簡略化され紋様となり、旗なり印なりに使われ、象徴するものとして彼(もしくは彼女――この国では武功によっては女王も歓呼の声を持って迎えられるところであった。ただし女王は過去二例に止まっている)が崩御するまで国中で使われるのだ。
 彼らはこの国の戦神であったのだ。否、なったのだ。元々彼らの紋様は神話や民話の中の英雄や怪物を元に作られている。死後彼らの象徴はまるで蔓草のようにからみあい、民衆の間で再び、今度は少し変化した形になって語られるようになるのだ。つまり、尊敬や畏怖の感情が加味されて王たちの生前より神懸かった話に脚色される。
 そして、それが十六体。
 十六体目は、皮肉なことに神殿が完成した時、息子に暗殺された哀れな権力者のための像であった。神殿には、以後像を作り続けることができるよう、ただひたすら長い回廊状に造られている。しかし、十七体目の像は、彼の息子のではなかったはずなのだ。
 彼は、後継者として息子を選ぶつもりはなかった。今となっては「つもりではなかった」とはいえ、厳然たる事実として息子が最高権力者になっているのであるが。
 この国では純然たる実力により、先の王が次代の王を選ぶのだ。力だけでなく、器や人望なども望まれる。あくまでそれも先王の独断によるものなのであるが、それでも冷酷無情、悪逆非道の王というのは今までいなかった。それはまさしく奇跡としかいいようがないが、この国では至って当たり前のように認識されていた。なぜなら、王たちは皆「神」であったのだから。そして、もしいたとしても歴史の狭間に抹消された。奇跡の見いだされない王など、王ではない。彼らの手によって、消えるべきだと判断された時、それが王の余命の尽きた時だ。  正式に十六代目であった先代の王は、歴代の王の中でも最も誉れ高い王の一人だった。ただ、彼にはひとつだけ欠点といえば、欠点があった。
 それは息子を必要以上に甘やかした、ということだった。それさえ、悪いことではない。しかし、この場合だけは悪い方向へと事態は転がってしまった。彼は、息子を甘やかして育てたが、決して息子を次代の王として決めていたわけではなかった。息子が育つにつれ彼には王としての器がないことを知り、王の候補からはずした。先代の王にとっては当たり前のこと。事実を伝え、どこか田舎に封土を与えその地を治めさせることが最良とし、反論は許さなかった。甘やかされた王子は憤怒に面を歪め、父の行いは不当で侮辱以外の何物でもないと憎悪をたぎらせた。
 ならば実力で奪うまで。彼がそう考えるまで、幾許もなかった。あるいは誰かに吹き込まれたか。
 彼はある意味では正しかった。王の座は、力ある者が持つとこの国では決まっていたからだ。しかし残念ながら専横の叡慮は正しかった。  その息子には器というのもがなかったのだ。それはこの件で証明された。
 王の器の小ささは、少なくともこの国にとっての国の器の小ささだった。

 間もなく、この国は滅ぶことになる。







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モノ人形編第二話。最初のノリを継続させることが困難でした。加筆修正2008/10/9。