あらし
「ねえ!どうしたんですか?!」
女性が叫んでいるのは、大きな岩の壁の前。その壁を叩き、彼女は必死に呼びかける。声の限りに叫んでいるのに、頑として動かぬ岩と同じように中からの返答はない。
よく見るとその壁は壁ではなく、岩でできた巨大な扉だった。洞窟の入り口をぴったりとふさいでいた。
彼女はこぶしを岩にうちつけ、中にいるものに呼びかける。手にはあざができ、そのうちこすれ破れて血がにじんだ。
その周りを多くの天神族が遠巻きに囲んでいる。皆不安げな面持ちで、何か祈りのようなものをつぶやき、地面に額づき土にまみれるものもいた。
「どうして!?どうしてですか!?何かいやなことでもありましたか?こわいことでもありましたか?」
外は強い風が吹き、一年中その姿を見せていた太陽は、何かにかじられたように端が欠けていた。
日蝕。
空は赤くそまり、遠くから大きな黒雲が見えてくる。嵐を予感させるような、ひどい空。
ぽつりと、彼女は言った。
「こわいのですか?」
今は叩くことをやめ、肩で息をしながら汗ばんだ手のひらを冷たい岩に押し当てるだけだった。
―そうだね。いま、とてもこわいよ。アマテラスは心の中でつぶやく。
「もしそうなら、ずっとそばにいてさしあげますから!」
つられて他の天神族も声を上げ始める。
―いてほしい。
「わたくしどもも、いつまでもいっしょにいます!」
大柄な男の天神族が言う。
―ずっと、いてほしいよ。
「アマテラス様が、わたしたちには必要なのです」
―わたしも、必要としている。
「ただ、そばにいるだけでよいのです」
―うん。それだけで、いい。
彼らは口々にいう。どの言葉も必死で、どこまでもアマテラスを案じていた。優しくて、やさしくて、心の深いところまで染み入ってくる。
けれど、それを跳ね除ける。心からしめだして耳をふさいだ。
本当は、今すぐこんなところから飛び出してみんなの胸に飛び込みたかった。いつものように温かい彼らの手と笑顔を見たかった。
でも、それではだめなのだ。
いまだ岩の戸に寄り添い待ち続ける彼女に、アマテラスは話しかけた。他の誰にも聞こえない、心の中の声で、そっと。
“ねえ、聞いてくれる?”
それを聞いて、今まで俯いていた彼女ははっと顔を上げる。血がしたたり落ちる。
血の匂いが、どこからか洞窟の中にまでただよってきて、あの悪夢をおもいおこさせた。
アマテラスは暗闇の中、固く目をつぶった。
“だまったまま、聞いて。
―わたしは、今日一日ここに隠れているけれど、明日には出てくるから。とても心配させて、本当に悪いとおもっている。
でも、これはすごい機会なんだ”
“すごい機会?”
彼女は心の中で語りかける。岩にぴったりとくっつき、耳をよせてそばだてた。
そうしなくてももちろん聞こえるのだが、絶対にひとつの言葉も聞きもらすものかと必死になっている彼女にとっては、当然の行為だった。
“今日は、百年に一度の日蝕。
―わたしは、生まれ変わるんだ。もっと、ずっと強く”
“あなたは、今のままでもじゅうぶん強いのに”
不安そうに彼女は呟く。金のつばさが、はたはたと風になびく。ふと、風が強くなっていると気づいた。心の中まで、強い風に吹きさらされているようだ。不安がさらに波立つ。
“そうだね。だけど、もっと強くうつくしくなるんだ。それは嬉しいことではない?”
オオカミは目の前にいないのに、彼女がぶんぶんと首をふる。自分たちをわかつ、この岩壁がにくらしい。
そういわれたら、絶対に否定するわけがないと知っていてそう問うのだ。
いつの間に、こんなにもしたたかな生き物になっていたのだろう。
ふと、彼女は岩戸の奥にいるはずの、白いけものとすごした時間がいかほどだったか回想する。
一体、どれだけの時が経ったか、よくわからなくなっていた。長い時を生きると、生きた時間を数えるなどと、むだなことはしなくなる。
彼女は、それをいま少し後悔している。
“ねえ。そうでしょう?”
アマテラスは力強い口調で続けた。
“だからね、お願いがあるんだ。大変なことじゃない。ただずっと祈っていてほしい”
“祈る?”
完全な暗闇の中でアマテラスはうなずく。それは不思議なことに外の彼女にもちゃんと伝わった。
“ずっとずっと、一晩中、わたしがもっと強くなるようにって。みんなで祈っていて。
それだけでいいんだ”
“…そうしたら、慈母と、また会えるのですか?”
おかしなことに、アマテラスと彼女のこころとのつながりは、まるでちぎれる寸前の糸のように細くなっていた。
もうすぐ、完全にとぎれてしまう。はたして、それはアマテラスの心が彼女から離れたからなのか、タカマガハラではほとんどないはずの嵐がもうすぐやってくるせいなのかはわからない。
けれど、双方もうそろそろ限界を感じとっていた。何かはわからない。
ただそれは、確実に何かが終わってしまう。
遠くで雷の光がまたたく。しばらくして雷鳴。
“明日の朝、かならず会えるよ”
そう聞こえた次の瞬間、辺りが真っ白に輝いたかと思うと、驚くほど近くで爆発のような雷鳴が轟いた。
そのとき、アマテラスがもうひとこと、何かつぶやいたはずだったが、岩戸の前にいた彼女が聞き取ることはできなかった。
この大きな岩に、雷は落ちたのだ。彼女は遠巻きにしていた天神族のところまで吹き飛ばされ、その衝撃で気を失いかけた。しかし、どこかを火傷したわけでも、ひどい怪我をしたわけでもなかった。アマテラスの力の破片を、わずかに自分の体から感じたような気がした。
きっと守ってくれたに違いない。
彼女の不安の中に、少しだけ、勇気が芽生えた。慈母の期待にこたえなければ。
彼女は半ば恐慌に陥りかけている仲間たちを叱咤すると、ただ、祈るようにといったアマテラスの言葉を忠実に教え、諭した。
あたりは黒雲にすっかり覆われ、強い風と、すぐのちに強い雨がふきつけた。それでも天神族たちは一晩中その岩の周囲で祈りのことばを唱えつづけた。
巻き上げられた折れた枝や小石が、彼らの腕や足を傷つけた。黒い雲は真夜中になると更に質量を増し、まるで天神族たちを吹き飛ばそうともくろんでいるようだった。
いつまで経っても、明けぬ夜なのではないだろうか。
誰もがそう思うほどに、長い長い夜だった。
“あなたたちの慈母に、きっと会えるから”
彼らが聞き逃した言葉。アマテラスの、最後の言葉だった。
← | ura top | →