いのり
ようやく山間から白んだ光がもれでてきた頃、全員疲労困憊しながらも、なんとかまだ祈りを唱えていた。
声はかすれ、体中に草や泥がまぶされたようになって、ひどくみすぼらしい格好だったが、誰の目にも真剣な光がやどっていた。
白んだ空がうつしだしたのは、あまりにうつくしい風景だった。昨日の夜の嵐がうそのように、鏡のような空は輝き、水にぬれた緑は生命力に満ちあふれていた。
しかし、彼らはそれらを気にする余裕もなく、ただひたすら祈り続けていた。
朝日は山から半分もでたというのに、岩戸に変化はない。いたって静かで、昨日の経緯さえ考えなければ、大勢が泥にまみれてぶつぶつと何か唱え、大きな岩を取り囲んでいるこの状況は、冷静に見れば滑稽な光景である。
ただ、「何も起きない」ことは彼らにさらなる焦りを与えた。
何も起こらないでは困るのだ。
本当は、かけだして行ってあの中を確かめたい。岩を開くことはできないけれど、せめて声を掛けて、返事を返して欲しい。
雷は、確実にあの大岩を直撃していたのだ。彼らが不安にならないはずがない。
無事だろうか。きっと無事だろう。彼女を助ける余裕だってあったのだから、雷など、大丈夫に決まっている。
けれど…
ひとびとの不安と焦燥が頂点に達した頃、ごとり、と大きな音がして、中から白い足が垣間見えた。
ひとびとの間から歓声があがる。手に手をとって今にも踊りださんばかりに飛びはねているものたちもいる。
ようやく、長い夜が明けたのだ。
大勢が駆け寄った。口々に何かを叫んでいる。もう祈りではない。
「昨夜のような大きな嵐は初めてです」「ずっと不安で不安で、おそろしかった」「雷だって初めて見ました」「一体全体、どうしてあんな天気になったのでしょうね」「わたしたち、アマテラス様のいうとおりにずっとお祈りしていました」「こんなにどろどろになってしまったんですよ!ほら早くでてきて見てください!」
岩戸から、白い大きなけものがでてきた。
ひとびとは、唖然としてアマテラスを見つめた。
真っ赤な無数の線が、体中をおおって、戦士のよう。
顔に施された花のような軌跡が、以前より凛々しく見せている。
そして、以前より一回りは大きくなった体躯はたくましく、白い毛皮は一層光り輝いてそよそよと風をうけて穏やかになびいていた。
昨日までのアマテラスと、違っている。けれど、確実にアマテラスの気配である。
そのアマテラスが、一歩踏みだした。
わずかな緊張が走り、小さく息をのむ気配があちこちで起こる。
と、一番前方にいた彼女に、アマテラスはすりよった。以前のように甘えて鼻をならし、気持ちよさそうに低くうなるさまは、彼ら全員にいいしれぬ安堵を与えた。
彼女は笑みをたたえ、その湿った鼻面をなで、とうとうその大きな体に抱きついた。そして他の多くの天神族と同様に、思う存分泣いた。
涙を一回り大きなアマテラスがなめた。ざらりとした舌が頬に感じられ、無事だったという安心感に、涙が倍になって溢れた。
あまりの嬉しさと、懐かしさに、なかなか涙はとまらなかった。
彼らは、再び安逸とした生活に戻った。
過ぎてしまえばなんのことはない。彼らにとって、ちょっとした非日常を体験した夜という、そんな過去の出来事になりつつあった。
予言どおり、アマテラスは以前よりもしなやかで強く、何者にも負けぬうつくしさをもっていた。それは彼らの誇りだった。
しかし―と彼女は考える。
以前と比べるならば、前よりも鋭敏な反応を見せるためか、少々怖く感じるときもある。
鋭い目つきと、すべてを切るような気配が、時折恐ろしい。
他のものは気にしていないか、気づいていないようだった。
ふっと、気を緩めて笑う。そんなの、ただの気のせいよ。
アマテラスが、大きな桃をくわえて逃げ回っているのが目に入る。追いかけているのは食い意地のはった天神族の一人だ。とてもじゃないが、追いつけないだろう。
それを見ていた他の天神族からも、くすくすとしのび笑いが聞こえてくる。
のどかで、平和な光景。
ただ、やはり彼女の心の中に、小さな影がさす。この間の嵐の日だって、こんなのどかな日常の合間に突然わき起こった出来事だったのだ。この平和がいつまでも欠損なく続くなどという保証が、どこにあるのだろうか。
きっとこれは、あの日以来ずっと心に深く根ざしてしまったことなのだろう。なんでもない、ふとした瞬間にこれからも怯え続けるのかもしれない。そんな予感が焼きつく。
気がつくと、隣に大きな白いからだがねそべっていた。すでに桃はどこかでたいらげたのか、満足そうに鼻を鳴らすと、まぶたも閉じてしまった。
彼女はその大きな体によりかかる。心臓の音が聞こえ、ゆったりとした呼吸が伝わってくる。その温かい体に、先ほどまでささっていた不安のとげは拭い去られ、心が安らいでいくのを感じた。
そのうちに、ひとりと一匹は、木漏れ日の下ですやすやと寝息を立てていた。
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