みち
―ここは?
彼女はひとり、ぽつんと暗闇に浮いていた。周りには何もない。否、何かがあるのかもしれないが、あまりの暗闇に何もみることはかなわないだろう。
一歩踏み出すと、まるで地面を踏みしめる手ごたえはないのに、すすむことができた。
そっと、少しずつすすんでいく。行けども行けども暗闇が続く。それなのに、彼女は怖いとは微塵も思わなかった。自分でも不思議なほど、こわくない。
かつて小さかった自分が、夜を怖がって父母に抱きついたのは、いつのことだろうか。
何か、とても懐かしいものがこの先で待っていてくれている。そんな予感が胸をしめている。次第に小走りになって、とうとう本気で走りだした。
走って走って、ようやく、遠くに何か白いぼんやりした光のようなものが、かすかに見えた。更に近づくと、それは光ではなく、アマテラスだということがわかった。
あの晩以来、姿かたちが変わってしまったアマテラスではない、以前のアマテラスである。
白いいきものはうずくまって、何かを耐えているように見えた。すぐ近くにいる彼女にも気づかない。そして、腕をまっすぐ伸ばせば届くだろうという距離になって、それ以上前に進めないことに気づいた。これが夢であろうことにも。
アマテラスはなるべく体をちいさく縮こまらせようとしていた。痛々しく、なんだかひどく哀れで、抱きしめてやりたいと思うのに、手が届かない。
あと少しで指がとどくのに。しかし、小指の先ほどのその距離が、どうしても埋まらない。
はがゆく、悔しかった。どうしてわたしの手は届かないのだろう。
彼女にはわかった。わたしたちの神は、苦しんでいる。そして、とても悲しんでいる。
だんだん苦しくて、辛くて、涙がこぼれそうになってくる。それなのに、アマテラスに近寄れない。彼女はとうとう手で顔をおおって、泣き崩れた。
途端、すぐ隣にふわりとした温かさを感じる。ちいさくしゃくりあげながら彼女が振り向くと、そこには赤い隈取が鮮やかな、大きなオオカミがいた。
真っ黒い目が、彼女を射抜くようにまっすぐ見つめている。
“あなたには、知って欲しくて”
その目が、今度は目の前のアマテラスに注がれる。隣にいるけものと比べると、なんと小さな体なのか。以前はあんなにも伸びやかに感じた背中が、あまりにも小さい。
“もしかしたら、うすうす感じていたかもしれないけれど、わたしは前のアマテラスじゃない”
その意味するところを理解するのに、彼女は数瞬要した。あまりの驚きに、涙さえとまる。
“もちろんわたしも「あなたたちの慈母」だけれど、前とは違うんだ”
とても、淡々と言葉がつむがれていく。花は咲いては枯れるのだ、という当たり前のことをいうように。
“前のアマテラスは、死んだから、もういない”
「死んだ」という言葉に、頭がぐらぐらとして、すべての考えを放棄したくなる。そうできたらどんなにか楽だろう。
頭のどこかで、ああやはり、という声もあった。
“…じゃあ、あなたは?”
隣にいるオオカミが、軽くしっぽを揺らす。それから、ふたたび彼女を見つめた。
“もちろん、のぞまれたから、うまれた”
“わたしたちに、ということ?”
ゆるゆるとしっぽが揺れる。肯定しているのだろう。
“あの晩に…?”
きっとそうなのだ。でなければ、いつ生まれたというのだ。
突如、轟く雷鳴。
同時に、暗闇全体が谷底まで一気に落ち込むような揺れに襲われる。
その後には、ふたたび、静寂。
あの晩の、固い岩の向こう側が再現されている。
“前のわたしも、そうのぞんでいたから”
すぐ近くでその呟きが終わるか終わらないかの内に、前のアマテラスの姿がぶれる。
見間違いかと思った。けれど、まばたきをしてもだめだった。
ぼろぼろと砂が風にさらわれるように、徐々に、しかしあっという間にその姿が暗闇の中に溶けていく。
気づけば、本当の真っ暗闇に彼女はとりのこされていた。隣には、相変わらず白い光にも見まごうオオカミがいるというのに、彼女の心は悲しみにぬりつぶされて、呼吸もままならなかった。胸がつぶれそうになるほど痛くて痛くて、たまらなかった。
“あれは、君たちのしあわせだけを願っていたよ。これからを守るために死んだ”
ああ、わたしたちの、わたしのせいで、あなたは死んだのね。
“遠い未来に起こることのために。しかたがなかった。
前のわたしには、こうするしか未来につなげる方法がなかったんだ”
責める口調は微塵もなかったけれど、だからこそ、絶望は深かった。
ふと気づけば、今まで隣から聞こえていた声が次第に遠ざかって、白い輝きと気配も消えていくのがわかった。けれど声を掛ける余裕もなく、彼女は再度ひとりぼっちになってしまった。
どれだけの時間が経っただろう。ずっと、彼女は膝を抱えてうずくまっていた。もうしゃくりあげる気力もない。
手はしびれて動かなくなり、まぶたもはれぼったい。ひどい倦怠感だけが残っている。
顔を無理やり膝の間におしつけているのも、そろそろ疲れてやめたいけれど、何かを裏切るようでなかなかやめられない。
ただ、周りが徐々に明るくなっているように感じるのは、気のせいだろうか。頭上に、澄んだ青空と、高いところを流れる雲を感じるのは、なぜだろう。
絶望の中の、ほんのちいさな好奇心に突き動かされて、彼女はわずかに顔をあげた。
そこには、思ったとおりの、いやそれ以上に青い空が広がっていた。
あの暗闇はどこにいってしまったのだろう。夢から、醒めたのだろうか。
しかし足元を見ると、真珠色にぼんやりと輝く白い草原が広がっていて、現実ではないのだ、と認識させた。
ちょっとはなれたところから、ちいさなくしゃみが聞こえた。
反射的に、彼女は立ち上がって駆け寄ろうとする。しばらく座っていたおかげでよろけてしまったが、どうにか動けた。
真珠色の草むらの中に、懐かしい、ちいさないきものがもぞもぞと体をうごかしていた。以前と違って、真っ赤な隈取をつけていたが、まぎれもなくアマテラスだ。
わたしたちの。
手を伸ばして胸にだきかかえると、ほっこりと温かかった。しめりけと重さが、彼女を安心させた。
ひとすじの涙が、頬をつたう。あんなに泣いたのに、まだ出てくるなんて。
彼女の顔に、ひさしぶりに伸びやかな笑顔がひろがった。
“いつまでも、まもるから”
顔をあげると、自分がうたたねしていたのだと気づいた。あまり時間がたったわけでもなさそうだ。まだ太陽は頭の真上にある。
隣では、しあわせそうに眠っているアマテラスの姿があった。
―なんだか、とてもおかしな夢をみていたような気もするのだけれど。
首をかしげて、頬に手をあてる。指先のぬれた感覚に、涙のあとをみつけた。
いつの間に、あくびでもしたのかしら。
彼女は、それ以上はあまり深く考えず、空いたほうの手ですべらかな毛でおおわれた背中をなでた。
ぱちり、とアマテラスの目が開く。その目は、いたわるような優しさにみちていて、けれど誰にも頼らない強さを秘めていた。
潔くて、強い目。
それをほんの少し寂しく思いながら、彼女はほほえむ。
「ねえ、アマテラス様。ずっと、わたしたちはお側をはなれませんよ」
白いしっぽが、優雅にぱたぱたと揺れた。
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